オミクロンとまん防について思うこと

「オミクロンは(特に社会インフラにとって)驚異であるものの、それはそれとして今回のまん防の内容がピントから外れてるし、発令に至るまでのプロセスも良くない」というのが自分の考え。特に後者については、都道府県知事って何のためにいるんだ?と本気で思った。
しかし一方で、ツイッター等でまん防への不満を表明している人のツイートを見ると、「コロナ(オミクロン株)なんて大したこと無いのに」というフレーズとセットになっていることが多い。感染症の驚異と対策の妥当性は分けて評価してくれ、と思う。

そして、そのようなツイートをする人について、「この人は果たして、感染対策上個人としてやるべきことをやっているのだろうか?」という疑問が浮かぶのは当然ではなかろうか。ここ二年各種メディアを見てはいつも、それを見た人が個人で取れる対策を疎かにしないかを常に不安に思っていた。
オミクロン株が大したことないと思いたいなら思えばいい。急激に感染者が増えたことによる正常バイアスもわかる。ただ、まん防が出て各種営業時間が短くなろうと、そうでなかろうと、個人個人がその場その場で取るべき行動が変わるわけではない。
外で人と食事するというのなら、その状況下で取るべき行動を自ら考えてするべきだ。マスクしないときは喋らないだとか、一定時間おきにトイレに立って手を洗うとか。

さて、ある話題について立場が二極化する際、SNSで目につくのはその両極の数%の人の意見がほとんどだそうだ。だから極端なコロナ軽視者や反ワクチンといわれる人は、自分が心配しているほどにはきっと多くないのだろう。また、SNSという場が極端な意見を目立たせるというなら、極端な人の何人かは、自分が極端であることを自覚できるようになるかもしれない。

クイズをガチってはや一年

ワンダーネットに入って1年余が経ちました。

よく学生のクイズ研究会なんかでは「2年生になって新入生を迎えたとき、この1年間での自分のレベルアップを実感するものだ」などといいます。
翻って今の自分はどうでしょうか。

1年前の自分と比べれば、明らかに成長はしていると思います。ボタンに触れる問題が増えたし、フリバでトップ争いに絡めるようにもなった。取り組んできたことが成果として出てると言っていいでしょう。

一方で、1年前の自分が今の自分を見たら、「1年やってその程度かよ」と思うでしょう。それが現時点での自己採点です。

幸いなことに上達への道筋、それも自分がまだ踏み入れていない道が見えています。早押しクイズという競技の性質上、これから1年の成長幅は、去年から今年のそれに対して乗数的に増えるのではないかと目論んでいます。

AQL2021はまだ終わらない

ランニングホームランを二本打ったとか、名古屋から札幌に異動したとか、もう些事よ些事

今年はクイズのことで軽く振り返ります

AQLチームに入団し、ガチクイズ元年と呼んでいい今年、どんな嬉しいことがあったでしょうか。

作問者として
チームで個人企画を二回やりました。作問を始めたてだった1度目は拙い部分も多かったが2度目のときは出題時に手応えを感じられた。聞いたところによると後日チーム外の方向けに出題されたらしく、そこでも好評だったとか。顔も知らない人とクイズを通じて繋がる喜びを知った。
それ以外にも、クイズを普段やらない人向けに、その人たちが触っている知識をベースにしたクイズを出題して楽しんでもらうこともできた。こっちでもやはり、クイズを通じて人と繋がれたように実感している。

プレイヤーとして
社会人になってからも、ソフトボールをはじめいくつかの趣味を掛け持ちしてきたけれど、試合に向けて練習や勉強をここまで重ねるというのはなかった。そしてその成果を試合の場で試すというのも本当に久々。勝負の場でしか味わえない本気の自分が出せて本当に楽しい。

そしてその積み重ねが実り、来年いきなり全国大会へ。あと1ヶ月ない実感が無いけれど、来年もクイズの年になるのか、早速山場です。

箱入り息子は卵のゆで方も知らない

昨日の日中は久々に自律神経の乱れを感じた時間帯だった。
具体的には、「右手の指先を中心に全身がほんのりピリピリする」「机から鳴るキーキーという軋み音がやたら気になる」「トイレが近くなる」など。

そんなナーヴを整えるべく、帰宅後即風呂にお湯を張って、珍しく30分ほど湯船に浸かって深部体温を上げるなどした。その間蛇口から熱いお湯を出しっぱなし。悲しいかな今の部屋には追い焚き機能が無い。

そして、手が震えるのは塩分が足りてないからかもしれん、と思い立ち、目玉焼きに食塩をぶちまけたものを夕飯に食べてみたところ、今日は安穏と過ごせている。とりあえず午前中までは。
しばらくは毎晩目玉焼き生活にしようと思う。

のだが実は、「卵に塩をぶっかける」といえば多くの人が想像するゆで卵を最初は試みていた。冷蔵庫の卵を引っつかんで水を張った鍋に即ダイブ、沸騰するまで加熱する……
ゆで卵って最初に卵に穴を空けないとダメなんですね。知らなかったよ。目玉焼きに切り替えていこう。

クイズプレイヤーwatjevv、得意ジャンルは経済、苦手ジャンルは「食べ物」である。

おじゃる丸の子鬼めら

小さい頃に見ていた『おじゃる丸』に出てくる子鬼の三人組が、変装をしているのにもかかわらず真正面からシャクを奪い返そうとするのを見て、その矛盾というか一貫性の無さに当時憤りを感じていた。

今思えばあれこそがまさにコスプレというやつで、当時の自分は「変装=正体を隠すために行うもの」という見方しか持っていなかったのだと今さらになって気付く。また、創作物語に対するメタ的な視点も欠いていたといえるだろう。(思い返せば彼らは毎回、その回の題材になっているもののコスプレをしていた)

このようなことをウダウダ考えていると、自らの見識を広げながら様々な視点を獲得することは人生の豊かさにおける重要なファクターだとつくづく感じる。

待てよ、でも『ポケモン』のロケット団はバレない変装をしていたぞ。キャラクターが持つ行動の目的を超えて成立するメタなネタって本当にアリなのか?(振り出しに戻る)

札幌に来てもうすぐ1カ月になる

急転直下札幌に帰ってきて、もうすぐ1カ月が経つ。

 

少し幅の足りないカーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚まし、名古屋にいた時とは違う曲を選んでかけながら出社し、頭を使わなくてもいい仕事をしながら考えなくてもいいことを考えて、時間にはほぼその日の仕事を終え、後ろめたさを感じながら他の人達より先に家路につく。そんな平日を繰り返している。

 

環境も職場の人間関係も一新されたものの、どうにも仕事中に周囲の目が気になるのが治らない。

引き続き心療内科にもかかっており、先日札幌に来てはじめて問診を受けた。思いの外込み入った話をして、「渡邊さんにはアドラーをお勧めします」「『嫌われる勇気』は読みました。『課題の分離』ではコロナ禍を克服できないのでは」「読んだことあるのならぜひ繰り返し読んでみてください」などのやり取りを経て、渋々電子書籍版を購入する。個人的に電子書籍は、①紙で持っている本を電子でも買う②すでに持っている本と同じような内容が予想される本を買う③かさばりそうな漫画を買う という使い方がいいと思っている。

 

そんなわけで、仕事中に心がざわついた時には携帯片手にトイレに逃げ込み、「嫌われる勇気」を補給してから自席に戻る。これを一日に何度も繰り返している平日なのである。

オリンピックが楽しみ

明日からオリンピック競技が開始される(ソフトボール、サッカー)。

 

 

個人的に楽しみにしている競技はバドミントン、テニス、ソフトボール、卓球、リレー、体操など。あと野球では近藤健介が仕事をしてくれることを祈っている。

もちろん上に挙げた以外の競技でも、選手たちの驚異的なパフォーマンスを見られることは楽しみだ。自分がやったことがある種目はもちろん、普段目にしない競技でも「人間にこんな動きができるのか」と驚かされ、見れば見るほど楽しくなってくる。普段ほぼ消しているテレビがしばらくは点きっぱなしになることだろう。

 

このオリンピックが始まるまでの間に、数々の欺瞞を見せられてきた。何とか責任を回避しようとなすりつけ合いを試みる人たち。平和の祭典を謳うのにあたって「赤点」を取る人たち。「ただしさ」に踊らされる人たち。自分の持つ嫌悪や憎しみを正当化して表出する人たち。運営、政治、メディア、SNS。あらゆる場所でくだらないおままごと、お遊戯会が繰り広げられてきた。

そんなやるせなさを抱えているからこそ、選手たちの純粋な能力のぶつかり合い、競い合いを見ることを渇望している自分がいる。世界一を目指す選手たちが最大限の努力をして戦うフィールドでは、どんな誤魔化しも効かない。100mを9秒台で走るためには「上司に取り入る」だとか「関係各所への根回し」なんてものとは次元が違う、本物の努力をしなくてはいけない。

世界の中で最も沢山、最大限効率的な努力を積み重ねてきた選手たちがナンバーワンを競い合うからこそ、純度の高い何かを見せてくれるのだと予感している。偽りなく鍛え抜かれた肉体の力、高みに行かんとして身につけられた技術、最高の結果をもたらすために妥協無く編み出された戦略。それらの中に、多くの人が失い恋焦がれていた「絶対」があるのだと自分は信じている。

 

自分や自分の大切な人が、明日感染症にかかるかもしれない。実力で優っているものが、正当に評価されないかもしれない。自分の好きな芸能人が、ある日突然キャンセルされるかもしれない。自分が好きな物のことが、友達は嫌いかもしれない。

何もかもが相対化され「絶対」が消え失せ、気を抜けば何もかもが他人からの目線に支配されそうになる昨今、いまここにいる自分の身体を取り巻く「絶対」に、選手たちを通じて思いをはせてみたい。

 

最後に。自分には教養が無いので、芸術や音楽に「絶対」を見出すことができない。そして逆にそれらに「絶対」を見出すことができて、スポーツには見出だせないという人もたくさんいるだろう。また、スポーツにだって欺瞞を見出すことはいくらでもできる。でもだからといって、「スポーツそのもの」と「芸術や音楽そのもの」を比べて価値の優劣をつけることなどできないということには留意したい。

自分はあくまで、スポーツそのものを見ることで、アスリート自身に見入ることで自分が渇望している物に触れられることを期待している。五輪開催に至るまでの運営側の数々の汚点など百も承知だ。でもだからといって、五輪を非難する中で、スポーツそのものの価値を否定するような言動は看過できないというのが、自分の率直な思いである。