オリンピックが楽しみ

明日からオリンピック競技が開始される(ソフトボール、サッカー)。

 

 

個人的に楽しみにしている競技はバドミントン、テニス、ソフトボール、卓球、リレー、体操など。あと野球では近藤健介が仕事をしてくれることを祈っている。

もちろん上に挙げた以外の競技でも、選手たちの驚異的なパフォーマンスを見られることは楽しみだ。自分がやったことがある種目はもちろん、普段目にしない競技でも「人間にこんな動きができるのか」と驚かされ、見れば見るほど楽しくなってくる。普段ほぼ消しているテレビがしばらくは点きっぱなしになることだろう。

 

このオリンピックが始まるまでの間に、数々の欺瞞を見せられてきた。何とか責任を回避しようとなすりつけ合いを試みる人たち。平和の祭典を謳うのにあたって「赤点」を取る人たち。「ただしさ」に踊らされる人たち。自分の持つ嫌悪や憎しみを正当化して表出する人たち。運営、政治、メディア、SNS。あらゆる場所でくだらないおままごと、お遊戯会が繰り広げられてきた。

そんなやるせなさを抱えているからこそ、選手たちの純粋な能力のぶつかり合い、競い合いを見ることを渇望している自分がいる。世界一を目指す選手たちが最大限の努力をして戦うフィールドでは、どんな誤魔化しも効かない。100mを9秒台で走るためには「上司に取り入る」だとか「関係各所への根回し」なんてものとは次元が違う、本物の努力をしなくてはいけない。

世界の中で最も沢山、最大限効率的な努力を積み重ねてきた選手たちがナンバーワンを競い合うからこそ、純度の高い何かを見せてくれるのだと予感している。偽りなく鍛え抜かれた肉体の力、高みに行かんとして身につけられた技術、最高の結果をもたらすために妥協無く編み出された戦略。それらの中に、多くの人が失い恋焦がれていた「絶対」があるのだと自分は信じている。

 

自分や自分の大切な人が、明日感染症にかかるかもしれない。実力で優っているものが、正当に評価されないかもしれない。自分の好きな芸能人が、ある日突然キャンセルされるかもしれない。自分が好きな物のことが、友達は嫌いかもしれない。

何もかもが相対化され「絶対」が消え失せ、気を抜けば何もかもが他人からの目線に支配されそうになる昨今、いまここにいる自分の身体を取り巻く「絶対」に、選手たちを通じて思いをはせてみたい。

 

最後に。自分には教養が無いので、芸術や音楽に「絶対」を見出すことができない。そして逆にそれらに「絶対」を見出すことができて、スポーツには見出だせないという人もたくさんいるだろう。また、スポーツにだって欺瞞を見出すことはいくらでもできる。でもだからといって、「スポーツそのもの」と「芸術や音楽そのもの」を比べて価値の優劣をつけることなどできないということには留意したい。

自分はあくまで、スポーツそのものを見ることで、アスリート自身に見入ることで自分が渇望している物に触れられることを期待している。五輪開催に至るまでの運営側の数々の汚点など百も承知だ。でもだからといって、五輪を非難する中で、スポーツそのものの価値を否定するような言動は看過できないというのが、自分の率直な思いである。