「だから」は少ない方がいい。

アメリカ合衆国の時期副大統領に内定(内々定?)しているカマラ・ハリスさん。

彼女に関するインタビューで有権者の人が「彼女は非白人系で女性"だから"素晴らしい」と言っているのをニュースで見て、何とも言えないモヤモヤを抱えていた。モヤモヤの原因は二つあって、それぞれを一旦ここで話したい。

一つ目は、「彼女は素晴らしい」の間にある「だから」って、そんなに簡単に片づけてしまっていいものなの?ということ。

彼女のこれまでの功績や働きぶりについて自分は何も知らないが、副大統領に抜擢されるにふさわしい実績を重ねてきたこと、素晴らしい才能を持ち合わせた人であることは想像に難くない。その人個人の素晴らしさ、卓越性を脇に置いて、「非白人系」「女性」という属性で善し悪しを語る、その態度の先に差別を乗り越えた自由があるのだろうか?

もちろん、インタビューを受けた人は「副大統領になるに相応しい能力を持ち合わせた人が、それに関係のない属性に左右されず順当に選ばれてよかった」という意味で言っているのかもしれないし、そうであったらいいなと思う。ただ、あのインタビュー、というかインタビューのテロップを見たときは、ハリス氏個人の尊重のされ方、また差別への戦い方として4年前よりもさらにベターな形になっているのか、見ていて心配になった。

そして二つ目に「非白人系女性だから素晴らしい」の裏にあるかもしれない「どこどこの議員はWASPの男性だからダメ」という思考の発生可能性をどう考えるか、というもの。

趣味やサブカルの世界で、「Aが好き!Aは素晴らしい!」という投稿に対して「じゃあBはショボいって言うんですか!?」などとコメントを付けると、それは所謂クソリプと認定される。趣味の世界で自分と違う楽しみ方をしている人にケチを付けるのは原則ご法度だ。しかし、集団の代表者を決める場においても同じ考えで良いかどうかは別なのではないか?集団の代表を決めるということは、そこに選ばれた人や組織の影響を多かれ少なかれ自分も受けるということであって、そこから見放されることに対する不安はマイノリティでもマジョリティでも持って当然だ。

少なくとも言えるのは、「それってマイノリティによるマジョリティ差別ではないか?」という内省を民主党陣営が欠いて、あるいはそれに蓋をしていた結果、「見放された」白人労働者層の受け皿となった2016年のトランプ氏の勝利が導かれたのではなかろうかということ。

思うに、集団の中で起こっている差別の克服とは、全ての人間が(いかなる属性にもよらず)個人として尊重されるという確信を全員が持つことが必要条件になるのではないか。今まさに起こっている差別や不遇に対しての緊急避難として、特定の属性を持つ人の尊重をさけぶことは「政治的に正しい」が、それは可及的速やかに「個人から個人への差別的行為への非難」という形に一般化されていくべきと考える。そしてそれが遅れれば遅れるほど、疎外感を覚える人が増える。

自分は、誰かに対して不快な気持ちを抱いたとき、それがその人の持つ属性に対してのものだと気づいたなら(それに気づくための自省の態度は常に持ち合わせなければいけない)、そのことを深く恥じ入り、直ちに取り下げられるような人間になりたい(※それを通過してなお、やっぱり気に入らない!となれば「罪を憎んで人を憎まず」、それも難しければ「その人個人を憎んでその人の属性を憎まず」となるだろうか)。一方で、誰かを素晴らしいと思い、称賛しようとするならば、その声はその人の持つ属性に起因せず、その人自身やその人個人の行いに対して届けるようにしたい。簡単に言ってしまっているがそれは途方もなく難しいことで、誰かが出来たからって他の人でも出来るってことでもないかもしれない。「所詮マジョリティ側の戯言」と一蹴する人だっているだろう。それでも自分は、個々人が持っている属性に基づくエトセトラを考えるとき、常にそこの検討から始めていきたい。

最後にもう一度だけ。その人が持つ属性によって今まさに不当な扱いを受けている人が、同じ(ような)属性の人を見て勇気付けられるのが素晴らしいことであるのは間違いない。ただ、自分がハリス氏の立場だとしたら、というか「長年のスペシャルな仕事の積み重ねの結果現在の立場にいることを自負している人」だとしたら、やはり自分個人の頑張りとして評価してほしいし、「○○だから」「○○なのに」という一言はその評価を薄めるフレーズだと感じるだろう。自分がその(能力、資質と直接関係のない)属性ゆえに職場で不当な待遇を受けているとすれば、個人として見られていないことに不満を覚えるだろうし、自分個人としての正当な評価と待遇を望むだろう。そして、自分のことを別段何者とも感じていない自分がそこにいて、他の人が個人ではなくその属性によって扱われているのを目の当たりにすれば、自分もまた(たとえ実はマジョリティに対しての厚遇を受けていたとしても)個人として扱われないことに対して嫌悪感を覚えるだろう。そうでなくてはいけない。

だから「だから」は人から「個人」を取り上げることがある。使うときも聞くときも十分注意されたい。