ノベルとトレランス

ここ最近、小説というものを読むのが億劫になってしまった。理由は雑に分けて三つある。

一つにはツイッターなどのSNSで、これまで気にしなくても良かった作者の肉声が聞こえるようになってしまったこと。これによって「あの人こんなこと考えながらあの話書いてたのか……」と思い知ることが増えた。特定のイデオロギーに偏っていたり、デマや偽科学に加担していたり。そんな光景を見ているうちに、「今自分が読んでいる小説も、作者の偏ったものの考え方のもとに書かれたもので、知らず知らずのうちにそのエッセンスを注入されているのではないか」と神経質になっていった。

そしてもう一つが、最近の読み手と書き手の間に通底する(自分の観測範囲の中でだが)、「生きづらさ」というキーワード。「ね、世の中はこんなに生きづらいでしょ?あなたが生きづらいのはあなたのせいじゃなくて世の中がいけないんだよ」という甘い囁きに対して身体が危険信号を発する。皆が世の中に対してお客様気分で生きるようになってしまっては社会は正しい方向に向かわなくなるし、少なくとも自分はそのように生きたくないと思っているつもりだ。それに水を差さないでくれ。

そして最後の一つ。物語を読んでいる最中に疎外感を感じることが増えた。マイノリティや特殊な生い立ちにある人を扱う話に対しては、そういった境遇を持たざる自分が置いてきぼりにされているように感じる。「私は○○という少数派であるがゆえに、このようなつらい思いをしてきた」「私は幼少期に家族や学校からこんな大変な目に遭わされてきた」お前はどうなんだ。何ら困ったこともなく成長して、少数派として苦労を味わったこともないくせに。と、物語とその登場人物からの非難の声が聞こえてくるようだ。



このようなことを考えるようになってから、純粋に小説の物語を楽しむことが出来なくなった。そして、物語の世界に広げられなくなってしまった自分の心の狭さに呆れる。

迂闊に小説を手に取れば、自分が物語の登場人物ではないことを思い知らされる。そして、「作者の偏ったイデオロギー」に感化されることを警戒して、登場人物に感情移入することもイマイチ出来ない。そうすることは、この現実世界をその物語に見立てる(この世は生きづらいという観念の押し付け)ことで、読者の持つ「自分の人生を生きる」気概を損なうことに繋がるからだ。

とはいえ信頼に足ると思っている作者の本は普通に読める。たとえば朝井リョウは前々から推していたが、『正欲』で自分の中での信頼が揺るぎないものになった。
あとは、冒険小説やSF小説の類は割と抵抗なく読めたりする。登場人物の特徴以前に、世界そのものが特殊だからだろう。

物語を味だたせるようなものを何も持っていない主人公の成長物語を知っていたら教えてほしい。それを読むことで、自分の周りに流れている停滞した空気を少しでも動かしてくれるような一冊を。